前回お話したブログの続きになります。
何に関してもですが目的を持って事をなすのとなさないのでは大きく変わってきますし、目的が何か?という事が明確になっていれば手法も変わってくるという事だと思います。前回は植物のお話しでしたが、今回は人です。植物も人も根本は同じなんじゃないか、そんなふうに感じたので、ここでお伝えしようと思います。
自分で気づき、自分で育つ力を信じて

私には2人の子どもがいます。1歳違いの年子の男の子の兄弟です。
兄は四角四面きっちりとした性格(私がそういう性格にしてしまったのもあるかもしれませんが)。一方で弟は何事も忘れっぽく兄とは真逆の性格をしています。弟は学校に行くのにも忘れ物が多く、小学1年か2年生の時に筆箱をリビングのテーブルに忘れて学校へ行ってしまいました。朝登校した直後に気づき、夫に忘れている筆箱を持って行ってあげろ。と言われました。私は即答で持って行かんよ。と言ったら可哀想やねぇかと言われたけど頑なに持って行くのを拒んだという出来事があったのです。
ここでの私の目的は「1人の人だと思って育てているから」です。学校へ持って行くのは簡単ですし、私が持たせ忘れた物であればこちらの責任です。しかし、子どもがランドセルに入れ忘れたのです。これは子どもの責任ですし忘れてしまった事よりもその後をどうするか?どういう方法(過程)をとり、どういう結果になったのか?が大切だと思っているからあえて持って行かないのです。子どもを見守り経験値を増やす目的です。
では授業が始まる前に忘れた物を持って行ったらどうでしょう?忘れたら誰かが持ってきてくれるという経験値がついてしまう。それを大きくなるまで続けてしまえばどうでしょうか?個人差はあるかもしれませんが大人になっても自分で解決せず誰かがどうにかしてくれる、という人が出来やすくなってしまうのではないかと思っています。
子育てをしていると、大人の都合で子どもに指示しがちです。私もそうでした。特に弟の子育ての時は年子ということもあり大人の都合で行動をさせてしまった事が多々あります。例えば○○くん、これとこれどっちがいい?好きな方選んで!と聞きます。子どもは好きな方を選んだのに対して、親がこっちの方が似合うや、こっちの方がいいんやない?など理由は何にせよ大人の都合で○○くんの意見が通らない事が何度かあった時、子どもはどうせ言ったって自分の意見が通らないから意見を言わなくなりがちになります。何でも大人が決めて解決してくれる生活環境に慣れてしまった場合、自分で考え解決しようとする力や、困った時の対処を大人がしてくれたりして、それに対しての免疫が乏しいため自己解決をするという力が少ないようにあります。
育てる、ではなく、育つのを支える

前回の植物と今回の子育てですが共通点がないようであるんです。大人(人)は子ども(植物)を信じて「見守る」という事。放置するのでもなく過度に干渉するのでもない。植物や子どもの自立し成長しやすい道にするのではなく、ある程度道を作ったら好きなように歩かせる事じゃないかと思います。植物は人が肥料を与えなければ必要な栄養を根をはり自分で掴みに行きます。子どもであればそこで得た経験や知識、喜びは何にも変えられないすごく太い根っことなり宝になると思います。